
オリンピック映画への手厳しい評価。
AMANO Takeharu(@ta_321) - 2022/06

こうも言えようか。河瀨の言う「私たち」のなかに“反対”する人間は存在しない。ネトウヨや現権力者の特性である「“他”を排除」した視点。
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佐野亨氏による論評。ご一読をお勧めする。➡

と突然思い出したのは、佐野亨氏の下記の記事を読んだから。《河瀨にとって、映画は自身の存在を肯定することであり〔中略〕そこには同時に、自身が承認されないことへの不安がつねに見え隠れしている》。謎が解けた気がした。悪意なんてなかったのだ。>

今年も『楢山節考』の語り直しのような『PLAN 75』を受賞させた「カンヌ」における河瀬直美の評価とは「観光映画」でありキッチュとして受け取られる「美しい日本の私」には「夜モノ」のごときモンド映画に近いものがあるということか

要するにルサンチマンに基づく過度な承認欲求が暴力となって露呈したという話だろう。いずれにしてもこんな奴を官民ぐるみで有難がってはいかんのだよ。

佐野亨氏の見事な記事。
河瀨監督の「全体」を描くことの放棄について気になっていたが的確な言葉がみつかった。「他者の不在」。それは監督の「私」の承認欲求の強度に因る。
河瀨監督の「全体」を描くことの放棄について気になっていたが的確な言葉がみつかった。「他者の不在」。それは監督の「私」の承認欲求の強度に因る。

河瀨作品への批判として、「自己愛」「ナルシシズム」という表現がしばしばもちいられるが、
俄然興味が湧いてきた。パワハラも必然だったのかもしれん😒
俄然興味が湧いてきた。パワハラも必然だったのかもしれん😒

[film] 良記事

職場にこれ張っとけ 。
#東京オリンピック 観るのは貴様が迷惑掛けたスタッフに土下座してからだ。
#東京オリンピック 観るのは貴様が迷惑掛けたスタッフに土下座してからだ。
今の時代、こんなん普通でしょ


“ ”
殴り返してこないと分かっている相手を顔が腫れるまで殴り続けるなんてことをやるのは河瀬直美かやくざくらいじゃな~い🤔
殴り返してこないと分かっている相手を顔が腫れるまで殴り続けるなんてことをやるのは河瀬直美かやくざくらいじゃな~い🤔

佐野亨さん 河瀨直美論
『萌の朱雀』の脚本執筆に際しても助言をおこなった是枝裕和は、1996年に河瀨との「映像による往復書簡」という触れ込みの短篇『現(うつ)しよ』を共作している。この作品では、両者ともに身の回りの物質や風景を8ミリキャメラで撮影しそこに自身の→
『萌の朱雀』の脚本執筆に際しても助言をおこなった是枝裕和は、1996年に河瀨との「映像による往復書簡」という触れ込みの短篇『現(うつ)しよ』を共作している。この作品では、両者ともに身の回りの物質や風景を8ミリキャメラで撮影しそこに自身の→

ちょっと何が言いたいのか分からない。

舌が沢山あるんじゃないの?
または、顔が阿修羅像か。
または、顔が阿修羅像か。

もっともらしい記事だけど、昭恵とのツーショットに象徴される権力との関わりが不問にされている。

暴力ふるってるのバレたからじゃねーの?知らんけど。

本性をよく知らないから!:

決定的な他者の欠落か――。なるほど。
こういう記事を読むと、むしろ見たくなる。
こういう記事を読むと、むしろ見たくなる。

ズレているのは日本側。川瀬さんを擁護する気はないが、黒澤明、北野武、いつだって日本のメディアは最初は批判、海外で賞を取ると掌返したように賞賛(笑)。この国はいつも同じ。

思想や作風に自己陶酔型の思考が強く感じられる。それが現実を直視しようとする是枝氏との大きな違いでもある。

映画は見てないけど、とりあえず藤井風の曲を聞きたくなった。
"『SIDE:A』では、五輪反対を叫ぶ一般市民の姿も映し出されるが、この映画において、彼らはどこまでも彼岸の群衆でしかない。そこに「私」はいない。では、「私たち」とはいったいだれのことを指しているのか"
"『SIDE:A』では、五輪反対を叫ぶ一般市民の姿も映し出されるが、この映画において、彼らはどこまでも彼岸の群衆でしかない。そこに「私」はいない。では、「私たち」とはいったいだれのことを指しているのか"

>「週刊文春」が報じたような河瀨の行動は、「私」を承認してほしいという彼女の「欲求、欲望」=承認されないことへの不安が、暴力的なかたちで「第三者に露呈してしま」った結果とも考えられる。
文春はすごい。そしてやはり四方田犬彦もすごい。必読。
文春はすごい。そしてやはり四方田犬彦もすごい。必読。

海外で賞賛ってカンヌだけやろ
カンヌが見つけてカンヌがプロデュースしてカンヌでしか評価されないカンヌ専用監督
ズレてんのはどっちか聞くまでもない
カンヌが見つけてカンヌがプロデュースしてカンヌでしか評価されないカンヌ専用監督
ズレてんのはどっちか聞くまでもない

映画監督ニュース
| 文春オンライン
| 文春オンライン

>是枝の作品の根底に「世界を美しく切り取る」ことへの懐疑の念がつねに横たわっているのに対して、河瀨にとっては、「私」を取り巻く世界の「美しさ」を自身のまなざしをとおして切り取ることこそが映画を撮ること、つまりいまここに生きている意味そのものだからだ。


まあ何でもええけど「殯の森」はつまらんかった。アレで他の河瀬監督作品は観てないの、損なんか?

記事のタイトルは編集部によるものですが、じぶんでは「『私』と『私たち』のあいだに」というタイトルをつけていて、以前『朝が来る』のパンフレットに寄稿した作品評「この世に生まれた誰もがたやすく承認されるわけではないということ」の続きのつもりで書きました。
以上
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