なぜ二郎は“苦悩”しないのか 『風立ちぬ』が描いたものの行方 | 文春オンライン

ツイッターのコメント(22)

?
文春の記事を読んで気になった『アニメと戦争』
アニメの戦争観の変遷
この本に触れられていた『桃太郎 海の神兵』もアマプラで見た
戦争の語られ方の変遷を「状況」「体験」「証言」「記憶」に分類した『「戦争経験」の戦後史』も読んでみようかな
「二郎の生き方を「時代の中で精一杯生きた」とだけシンプルにまとめてしまうのはとても危うい。「精一杯生きたからしょうがない」と「時代に流された」の間にはどのような境界線があるのか」
 ↓
言ってる内容は頷ける。
そして放映当時の「二郎の戦争協力についての考えが出てない」という寝言は、本当にゴミだった。
あの敗戦は参加したことが悪いのではない。負けたのが悪いのだ。協力して何が悪い?
「だまされたものの罪は、(中略)あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである」
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている=藤津亮太。
宮崎監督の映画は、となりのトトロ を子どもと観たのみ。素晴らしい作品群と思いつつ「考える」作業が自分にはツラそうだった。たまたまイセクラ様のつぶやきを きっかけに 風立ちぬ を観た。フェと同様、想いをめぐらせることになった。しんどいけど考える。追いたくなる。
「風立ちぬ」みた。よい。
涙腺ちょろ期なので泣きもした。

今の教養・感性・時勢等のなかで出あえたのも善し。
もし公開当時2013年の私が何かの拍子で触れていたら、怒りをもって0点と評していた恐れすらある。
堀越二郎(ジブリ)はなんであんなに合理的判断を最優先できるんだろう?って思ってた。
ついでに人の話を聞かなくてマイペースなお陰で子供の頃からの正義感の強さとか守ってこれたのかな。(だってあの環境で合理的に生きてたら冷酷になりそうなもんなのに)
「戦争協力で苦悩してなかった?」との疑問自体が、戦後教育洗脳から出た疑問と気付かないの、闇が深い。

なおホンダの技術主任で第一期F-1総監督だった中村良夫氏は、戦中に戦闘機設計もしていたが「技術者としての目標と結果が明らかで、非常にやり甲斐があった」と述懐。
…映画監督の伊丹万作は『戦争責任者の問題』の中でアジア・太平洋戦争にまつわる責任について…「だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲…
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。
現実の中で「生きようと試みる」ということは映画の中の二郎の振る舞いとは遠く、自分の中にある「文化的無気力、無自覚、無反省、無責任」といったものに抗っていくことだと思う。映画が公開された2013年よりも現在のほうが、その意味は重くなっている。
概ね納得で、痛みをもう少し表してもってのもそう思うが、ただ、二郎が痛み知らずのボンボンキャラだからってところも。ボンボンじゃなきゃ貧乏っ子に「ひもじくない?」なんてセリフ言えん
| 文春オンライン
だまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、~批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである
その辺のことを上手に言ってくれてるのが藤津亮太さん、なのかなあ
あまり堅苦しく考えないで、オリジナルの物語として観るのがいいんじゃないかなー
| 文春オンライン
"序盤で就職したての二郎は、上司の黒川から、隼型試作戦闘機の失敗の理由について問われ、次のように答える。 「いいえ。問題はもっと深く、広く、遠くにあると思います。……今日、自分は深い感銘を受けました。目の前に果てしない道が開けたような気がします」…"
藤津さんらしい分析ですね。
2021/8/27
文春オンライン(藤津亮太)
『風立ちぬ』の美しさと、そこに留まらぬための記事。現代の私達にとっての「生きようと試みる」とは。
以上
 
PR
PR